この世の出来事だけを観れば、
「一方的に誰かが被害を受ける」
という状況が沢山あるように思われます。

しかし、実際の所は、
誰かの手により一方的に他の誰かに迷惑がかかることはありません。

迷惑をかけられた場合では、必ず、迷惑をかけられたことにより精神進化が促進されるだけの理由があります。
元を辿ると、無限にある前世でした他者への行い・誤った思念により、精神的要素が不足してしまったことが根本的原因です。

その欠けた精神的要素を取り戻すには、今世で他者から同じ目に合わされることで補われる必要があります。
(他者への善行に身を尽くして精神進化を遂げられる場合では、必ずしも、同じ目に合う必要はありません)

その過程は、人間は過ちを犯した時点よりも優れた見識を備えて、本来の優れた存在へと戻っていく道のりです。

例えば、

前世で他者を奴隷のようにこき使ってしまった場合ですと、人格から謙虚さが抜け落ち、傲慢さが形成されています。
すると、その傲慢さを削るため、今世では誰かから奴隷のように扱われるよう摂理が働きます。
社員を奴隷のように扱う会社に勤め、また、そこから離れられない場合では、その経験によって他者の痛みを知り傲慢さを削ることができます。

ただ、これだけ聴くと、奴隷のように扱われる会社の社員は傲慢な人間ばかりであるかのように思えないでしょうか?

実際、そのような会社の社員の人達を見ると分かる通り、そんなことはありません。

なぜかというと、今世で備える人格というのは
「未来に経験すべき出来事に合わせて出来上がっている」からです。

摂理に沿った生き方をする人の方が少数派であるこの世では、傲慢な人間が痛い目を見るとは限りません。
どちらかというと、おどおどした人の方が痛い目を見ることが多いでしょう。

そのため、前世で傲慢であった人であるほど、今世は人から痛い目に合わされるであろう人格を持ち、無限にある前世でした行為の埋め合わせをしています。

この場合では、前世で誤って使用してしまった能力や人格は一旦封じられることも多いです。

例えば、

前世で人を騙したのであれば、今世では騙されやすい人格を持ち、人から騙されないための知能が封じられています。
前世で仕事がデキるがゆえに能力に欠けている人を見下していた場合では、今世では仕事の能力が封じられています。
前世で社会的成功をした配偶者に頼り切り贅沢三昧をして過ごし人のために生きていなかった場合では、今世では自立心を持って生き、節制を学べるよう人を頼る力が封じられています。

とはいえ、これは1例であり、それぞれの人によって事情は異なります。
くれぐれも、おどおどした人間や能力の欠けた人を観て、前世でよほど悪いことをしたのであろうと判断しないで下さい。

というのも、他にも下記のような事情があるからです。

1 その人の今世の人格が形成されるにあたっては、他者のカルマにも関係がある
2 人徳(前世の良い行為)があるがゆえに特定の能力が欠けている場合もある

などです。

まず1についてお話いたします。

身近に神経質であり寛容さを養わなければいけない人格を持つ人物がいるのであれば、その身近な人は「注意力に欠け、細かいミスを良くする」といった能力や人格を持つ必要があります。

寛容さに欠ける上司の前では、部下がミスをしやすくなるのと同じです。
その上司の前でばかりミスをしてしまうのは、その上司の方が寛容さを養う必要があるからです。
この場合では、上司の試練(カルマ)に細かいミスをする部下が必要だったということで、お互い様の関係です。

このように、自身が持つ今世の人格というのは、カルマ上接点の強い他者が経験する必要のある試練に合わせても形成されています。

そのため、一人の人格はその一人の人物の責任だけではないということです。

次に2についてお話いたします。

人徳があるがゆえに欠けることになる能力があります。

例えば、

人を騙して物を売るといった技術は人徳のある人間であるほど、身につきません。
また、やろうとも思えないでしょう。
こうした事は摂理による保護ですらあります。

そのため、負の側面が強い能力に関しては、人徳ある人間であるほど欠けることになります。

しかし”負の側面の強い能力”の見極めについては、人間的視点で物事を観ていると分かりにくいでしょう。

例えば、経済の効率化が進めば社会全体から雇用が失われ、効率化により食物も悲惨な状況になっていきます。
文明は効率化によって本質的には荒廃するようになっています。

そのため、物事の効率化になじめず効率化する能力や意識に欠けた人間の中にも、人徳があるゆえにそのように振る舞っている人もいますね。

このような事情がありますので、おどおどしていたり、能力に欠けた人間が負のカルマゆえにそうなっているとは限らないということです。
人間的知覚では理解できないような原理も無数に入り組んで構築されているのが摂理です。

表面的人格で物事を判断せずに全ての人に対して愛のある視点を保つのが理想的です。

ただ、共通して言えるのは、
過去に犯した過ちと相応の苦難を経験することや、他者への善行によって徳を積むほどに、欠けてしまった精神的要素(人格面での美徳)を取り戻していけるということです。

自立心に欠けている人であれば、他者への善行をすればするほど自立心を取り戻します。
他者への配慮に欠けている人であれば、他者への善行をすればするほど気配りを取り戻します。

過酷に思えるかもしれませんが、この世の全ての苦難には意味があります。
全ての出来事はお互いのカルマにより成り立っていて、誰かから一方的に被害を加えられる事の無いよう摂理に保護されています。