摂理に沿った生き方を始めた当初は「摂理に沿った生き方しないといけない」という想いの元に行動していきます。
そのため、過ちを犯すことへの恐れが強まるでしょう。

これは間違いというわけではありません。

摂理に反した生き方をしていた場合、初めは摂理に沿った生き方を強く心がけるのはプラスに働きます。

ただ、いつしか『過ちを犯すことへの恐れ』も解消する必要が出てくるでしょう。

摂理と人間の関係を、親と子供の関係に置き換えると分かり易いです。

子供が親を意識して「親のように立派な行動を心掛けなければ」と親に縛られている内は、立派な人間とは言えないでしょう。
親からすれば、過ちを犯す覚悟で物事を決断していく方が立派と言えるのです。
※ある程度、その子供が摂理に沿った行動ができている前提であれば。

また他の理由もあり、
自身が過ちを犯さないことに囚われていると、結果的には自身を過大評価する結果になってしまいます。

例えば、一人の医者がいます。

その医者は摂理に沿う生き方をした事によって、患者を治すための優れた知恵が与えられました。
すでに多くの人がその医者の元に通う事で病気が治っています。

ただ、一人の患者が来て、その患者の事をその医者は治せませんでした。
そこで医者は治せなかったことを罪に思い、神様に対してこう言いました。

「患者様は病気を治したがっていた。しかし、私は治せなかった。
神様、なぜ、私にこのような罪を犯させたのでしょうか?」

と。

これは、自身の事を過大評価している状態です。

なぜ、その患者は自身の元で治らなければいけないのでしょうか。
患者が自身の元に来た経験が活き、未来には別の医者の元で治るかもしれません。
また、病気が治せなくても病気を通じての精神進化という意味では成功するかもしれません。

世界を主体に考えてみると、患者がその医者(自身)の事を悪く思ったとしても、患者は良い方向へと導かれていくのが分かるでしょう。

特に、摂理の実践によって優れた知恵を持った人なら誰もが「私には責任がある。何が何でも自身は罪を犯したくない」という気持ちを持つことになります。
ただ、その気持ちには、自分と関わった人間は即座に良い方向へといかなければいけないというエゴが入っています。

精神進化を続けていくと、自身に関わった相手が良くなるかどうかに対して『自身の行動によって相手が即座に良くなっても良くならなくても、どちらでも良い結果に繋がる』と、確信が得られる時がやってきます。

すると、自身が過ちを犯すことに対して恐れが無い状態になっていきます。

世界(摂理)と精神が同化するほどに精神発達を遂げた場合では、自身さえも一つの要素にしか見えないので、その患者が自身の元で良くならなくても、自身の元を去り、他の場所で良くなれることに対し同じ喜びを感じることになります。

摂理に沿う生き方を始めた当初は自由ではない印象を受けるかもしれません。
しかし、真に摂理に沿う生き方とは自由なものです。

摂理に沿う生き方を続けていけば、いつしか、「自分は優れた存在でいなければいけない」といった概念からも解放される精神的自由が得られます。